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いつもどおりに過ごすということ

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エリサ
エリサ

・ミニマリスト歴8年
・著書が4カ国で出版
・エンディングノート講師
・北海道で一人暮らし
・40代でおばあちゃんに

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ライフスタイル
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こんにちは。
エリサです。

ちょっと重たい話が続いてごめんなさい。

悲しい気持ちを広げたいわけではなくて
人生の大切なことを書き残したい気持ちでいます。

どう書いたら伝わるかを考えて
何度も書き直してみたのですが
頭の中がごちゃごちゃでうまくいかなかったので
そのまま書き残すことにします。

なにもない日のありがたさ

5年前に母の闘病が始まってからは
日々祈るような気持ちで過ごしました。

その中で強く感じたのは
“なにもない日”のありがたさです。

特別なことが起きないのは
なんてしあわせなんだろう、と。

平常心を保つ

母のことは5年かけて覚悟を固めていったので
万が一のときにもできるだけ平常心を保つことを
自分の中で決めていました。

それが家族と自分の身を守ることになり
母が望むことでもあると思ったからです。

いつもどおりに過ごす

体がだるい日も浮足立った日も
朝のルーティンを行っています。

いつもどおりに過ごすことが
平常心を保つために大事だと思っているからです。

このブログのこともそう。

母に何かあったときも
毎日更新を途切れさせないようにしようと
決めていました。

しばらく書けなくなる状況も考えて
予約投稿でストックしたりもしながら。

平常心を保てなかった日

とうとう母が危篤だと連絡が入ったとき
資格取得のウェブセミナーを15分後に控えていました。

たとえ何が起きても最後まで受講する気でいたのに
セミナーが始まってもお話が頭をすり抜けていってしまい
とても勉強できる状態にないと判断して途中退室しました。
(その後、振替受講させていただけることになりました)

あんなに時間をかけて覚悟していたのに。

平常心を保つことがいかに難しいかを実感しました。

それでも日常を過ごす

母とお別れしたあとは
今までとは違う世界になっていました。

それでも淡々と朝のルーティンを繰り返し
日課の作業をこなし
こうしてブログを書いています。

なにかあった日も
なにもない日も
同じく大切に過ごしたいと思って。

しあわせはここにある

母のことは悲しいけれど
それでもしあわせな気持ちでいます。

悲しさとしあわせは共存できるのだと
初めて知りました。

母から受けた愛情は消えませんし
自分の感情を見つめる時間にも意味があって。

うれしいことがあるからしあわせなのではなく
悲しいことがあるから不幸なのでもなく。

…ちょっとうまく伝えられていないけれども。

自分の心のあり方をこれからも磨いていきたいです。

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