子どもの頃、人と違うのは不安なことでした。
私の本名は、絵里沙と書きます。父が名付けてくれました。私の世代には珍しかった名前です。
おさるのかごやの呪い
幼稚園の頃、同年代のお友達はだいたい名前の最後に『こ』がついていました。たまに『み』『え』『か』などで終わる人もいましたが、『さ』は周りにいませんでした。
この頃の私は、みんなと同じように『こ』が付く名前に憧れていたんです。
当時の遊びで、鉄棒にぶら下がって”お猿のかごやごっこ”をするのが流行っていたのですが、その時の掛け声というか歌が「エーッサ エーッサ エッサホイサッサ」だったんですよね。園児の私は「おさるのかごやの歌と似た名前だ…」と思うように。
今思うと吹き出してしまうくらいの理由ですが、幼い私は「おさるみたいな名前だと、他の人に気付かれませんように」と心の中で祈っていました。
個性を重視する価値観
名乗ると「珍しくてかわいい名前ね」「素敵な名前ね、どなたがつけたの?」と言われる経験を経て、”おさるのかごやの呪い”は薄れていきました。
思春期になった頃には、自分の名前が好きに。
何度も繰り返された、珍しい名前を褒められるという経験。この環境によって”個性を重視する価値観”が育っていった気がします。
結果、個性的であること・人と違うことが私のアイデンティティのように感じていました。特に20代〜30代までの服装や持ち物選びには、それがよく反映されています。
本名っぽくない
名前を褒められることとは反対に、困ったこともありました。
- 漢字を書き間違えられる(よくあるのは『里』が『理』になるパターン)
- 源氏名と思われる(口に出したのは一人だけど氷山の一角の気が)
- 本名だと思われない(仕事が活動名をつける人の多い業界だっただけに)
※源氏名とは、源氏物語にちなんでつけた女官の名前。転じて、遊女やバーのホステスなどの呼び名のこと。
漢字の書き間違いに関しては個人的にはほとんど気にしていませんが、本名を名乗っているのにそう思われないのは少し悲しかったです。
キラキラネームに感謝した
世間に『キラキラネーム』なんて言葉が誕生した頃、私の名前はさほど珍しくなくなりました。それに伴って、源氏名や本名だと思われないことも減った気がします。
漢字を一文字ずつ素直に『エリサ』と読めば良いだけなので、読みづらさもありませんでした。
私の名前よりもインパクトのある名前がたくさん誕生したおかげで、問題は解決。だからキラキラネームには密かに感謝しています。
本名の価値が薄れる時代
そして今、インターネット世界の広がりによって、本名の価値が薄れてたのを感じています。当たり前のようにハンドルネームを名乗り、その名前でつながっていく社会。
本名を名乗るのは『看板を背負う』のと似た責任が生じるので、受け取る側に安心感を与える効果があります。だからハンドルネームでつながる社会に不安を感じる人もいるはず。
けれど私は軽やかさも感じます。過去にとらわれない人間関係がたくさん生まれていく予感。
いま私は、自分の名前が『エリサ』でも『エリー』でも『白の魔法使い』でも、なんでも良い気持ちです。自分が決めるのではなく、必要とされる名前で呼ばれれば良い。
そうやって自分と世界が溶け合っていく感覚です。
名前が与えてくれた経験
たったひとつの名前によって、経験できたこと。
- 人と違うという不安
- 個性的という価値
- わかりづらさによる誤解
- 比較による立ち位置の変化
- 不確かなことを受け入れる姿勢
この名前を付けてくれた両親に感謝しながら、これからどんな経験ができるのかを楽しみに生きたいです。
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