幸せとは極めるものでもない?!
項目 履歴とゆかり
・ライフイベントの嬉しかったことについて考える
私が結婚をした頃は、披露宴では男性が参列者の前で
「〇〇さんを幸せにします」と言いながら、義理の両親に花束を渡す演出が主流だった。
私が結婚したのは30年くらい前だけど、「幸せにしてもらう」 という立ち位置に、当時から違和感があった。
◇◇◇
私がその時までに本当に幸せだと感じたものは、受動的に与えて貰ったもの、という感じではなかった。
そもそも私は、自分の頑張りが何かに繋がった時にしか得られない幸福感の方を、欲していた。
エンディングノートにある、【人生で嬉しかったこと トップ3 はなんですか?】という問いに答えた時、その事が明らかになった。
(嬉しかったこと、自分で頑張ったことばっかりやん?😂)
結婚をした頃、結婚生活もイコール幸せだとも思わなかったし、そこはゴールでも無かった。
幸せな家庭=穏やかな家庭だとするなら、そもそも与えてもらうもの、ではなかった。
決して穏やかな家庭で育ったわけではなかったので、元々あったものでもないし、お手本も無い。
穏やかな家庭は、自分が頑張った先にしか ないものだった。
◇◇◇
まずは生活を色んな側面から整えて、煩わしさを減らしていく。
これが穏やかへの近道だと考えた。
ここへの道のりに一番役にたったな、と思うのは、お片付けだった。
私が学んだお片付けは、脳の構造「癖」のようなところから考えるスタイルで、モノのお片付けのみならず、頭の中のお片付けにも非常に役に立った。
何が絶対の正解かまでは分からなかったが、こっちの道に行ったらダメだよ、ということには 徐々に気づけるようになった。
部屋は、アフォーダンス理論に基づいて、片付けが自然と出来るよう、何となく勉強や読書に向かうような仕組みや流れを考え続けた。(言うほど成果があったかは疑問だが)
食に関しては、お料理は好きというほどではなかったが、穏やかな食卓の演出には拘った。
たとえば小食の子供達には、食べることを催促しなくても良いようにと 工夫していた。
苦手なモノは分からないように形を変え、一口で食べれるように、飽きないように、、、などなど。
(世の中ではこういう行為を、構い過ぎ、と言う😅)
ギャーギャー言われて育ったので、ぎゃーぎゃー言いたくなかった。笑
そして、最終的?には 東洋の幸せの価値観って、結局お釈迦さまの教えなのでは?と思いたち、原始仏教も学びに行ってみた。(具体的な難しい部分は理解も記憶も追いつかなかったが、穏やかの極み「凪」みたいなものが そこにあることは感じ取れた)
ずっと、自分を幸せにするのは自分しかいない、とも思っていた。(なんか可愛くない😢)
そう思って、少しだけ色んなことを頑張ってきた。
それが自分を幸せにする方法だと疑わなかった。
◇◇◇
だけど、近年、なにかが違うのでは?? と 思う時がある。
自分に与えられている幸せには見向きもせず、何かを自力で手にすることに、囚われすぎているのではないだろうか?
頑張り屋さん正義、頑張り屋さん神話、みたいなものを自分で作っていたのかも、とも感じる。
ただそこにある、有難い宝達を大切にする、それで もはや充分なのでは?
そこに幸せ、いっぱいありません??
そう思う日がある。
幸せは「なるもの」 ではなく、「気づく」 ものってね。
まだ「そう思う日がある」 というレベルなので、またお馬鹿な私は 何かを無闇に追い求めてしまうかもしれない。
それでも(ふぅ)と、息を自分から抜いてみて、必要な分だけ吸うというスタイルに 変えていきたいな と思う。
必要以上に吸おうとすると、結局苦しいのだから。
幸せも腹八分目、二割の余白、かな。