「思う」と「伝える」の間で



項目 履歴とゆかり(人生の振り返り) 

<言いたいことが言えないってどういうこと>



他の人の頭の中を覗いたことが無いので比べる事は出来ませんが、私は色んなことを少し複雑に「思ってしまう」タイプだったと思います。

メールやLINEの文章の中にも、書いた人の小さな思い、いわゆる行間というものに敏感。

「なぜわかるの?」「どうして気付いた?」と言われることは、学生時代から日常でした。


中学生の頃は本もろくに読めないのに、現代文の若い男性教諭を相手に、小説の行間解釈についても口論になるようなメンドクサイ少女で。(先生ごめんなさい。)

「それは考えすぎだよ~」と人が思うようなことも、だいたいは考え過ぎなどではなく、後々答え合わせをすると外してないなということが多いのです。



人は自分が自然とやっていることは、周りもやっていると思いがちです。

私は自然とこの行間を読んでいたので、私が静かに込めた思いも周りの人にも読んでいてほしかったのです。

自分のことをたいして伝えていなくても「わかるよね?」というスタンスでいたかった、いや押し付けていた?のだと思います。


私はこのことにある時気づいたことで、自分のことを「こころのお育ちがよろしくないなぁ」と思うようになりました。




ではなぜ、私が自分の思いをまっすぐ出して、伝えなかったのか?です。

まず「思う」と「伝える」の距離が遠かったなと思います。

他責思考も強かったなぁ。

そして、

幼少期からの「ひとまず否定」という母親の姿勢は、私の成長に大きく影響したと思います。



一人でいるのがラクでいい。

そういう人には、こういう人が多いと聞いたことがあります。



自分が母になり、子供と向き合って、どんなふうに子供にはいて欲しいか?と考えた時、

「何かあったこと、思っていることをまっすぐ伝えて欲しい」ということでした。

親に心配をかけたくないから、と言う子供がいますが、

私は「お母さんならなんとかしてくれるかも」と子供が思うにはどうすれば良いか?と、考えました。

何を言ってもひとまず大丈夫だよ。

自分の思いに正直であっていいんだよ。

その想いが、子供たちに正しく言語化することの大切さを伝え始めたきっかけでした。



しかし、こと自分事(自分の願い?や思い?)になると、正しく伝わるのだろうか?という不安の方が強く、誰に対しても回りくどくなってしまう。

「で、何が言いたいの?」

よく夫に言われた言葉でした。



思っていることを下手にまとめてしまうと、自分の声がいかにも嘘っぽく聞こえて、そんな自分に笑えて来ることもよくありました。

うまく食卓に並べることが出来なかった言葉を、伝えることなく心の中で腐らせて、ゴミとしてため込んでしまっているのかも?


いい加減大人なんだから、、、と自分に心の中でつっこみを入れたくなりました。

なるはやで、ここのお掃除をしなくては!!



そんな時、私が伝わるかどうか?についての考えが、大きく変化した出来事がありました。

母が亡くなる数ヶ月前、どうしても過去の母の行為で理解が出来なかったことについて、自分の思いの部分「嫌だったこと」を伝えてみたのです。

タイミングを見計らって、しっかり吟味した言葉で。

私の中では最後の賭けのようなものでした。



しかし結果は鮮やかにスルー(笑)。



私はこの撃沈のお陰で、伝わるか?ということに関して心底諦めることが出来たのです。

伝わるかどうかはもう気にしない。

どんなに頑張っても伝わらないことがある。

伝わるかどうかは、私の問題ではない。

そう思い切った瞬間、これからはひとまず思ったことで言いたいことなら、そのまま伝えてみよう、という勇気が湧いてきたのです。


もう心の中で腐敗させたりしない。


変な話ですが、一番理解されたかった人に鮮やかなスルーを喰らったお陰で、私はそこへの自意識を取り払うことが出来たのだと思います。



今思うと、母には自分の理想の母親像を押し付けていたのかな、と思ったりします。

もっと早くに心の適切な距離をとっていれば、多くのことは何てことはなかったのかもしれません。

しかしこれも母が亡くなって8年も経ったので言えることかもしれませんね。


以前からこのブログを読んでくださっている方は、レナ蔵、母との関係はあまり良くなかったか?と思われているかもしれません。



先日父と妹とのお誕生日企画で、お互いの良いところを20個出し合おうとなった時、父が私の良いところに「お母さんの𠮟咤叱咤によく耐えて、強く育ったところ」と言ってくれていました。

正直母は、小さい頃からトラウマになるような傷つく言葉をたくさん投げかけてきたし、機嫌が悪いとこちらが40歳を越えてもグーで叩いてくるし、なんでこの人が私の母なんだろう?と思ったことは一度や二度ではありませんでした。


離れて暮らすようになってからは、実家に帰る際は2週間位前から必ず胃痛に苦しみ、何度検査したか分かりません。

帰省当日、新幹線を降りたら何故か気持ちが悪くなる、これもはじめは理由が分かりませんでした。


母のお葬式の日、青空から降り注ぐ秋の太陽が私に「ようやく自分の人生が始まるね」と言ってくれているようにさえ感じました。


しかし今は、実母も一緒のお墓に入るにはどうしたらいいだろう?とか、生まれ変わったら母の母になって、彼女を愛情を持って育てなおしたいな、などと思う自分がいます。


この世とあの世に別れてから時間が経つと、こんな気持ちになるんだな、と不思議に思います。


親子関係で苦しんでいる人は少なくないように感じます。


親が亡くなった時のことを想像してみてください。


考えても涙が出そうにないなと思った方は、そっと心の距離を取ってもよいのかな、と私は思います。




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