エンディングノートが「書くぞ」という一時の気合いだけでは書けない理由
嫌な項目とは
そもそもエンディングノートって、、、楽しいものじゃないですよね?
私を含め、エンディングノートを書くのが楽しいと言っているhibiya(私が属しているエンディングノート制作チーム)メンバーは、少し変わっているの?
いいえ、書くのが簡単じゃない項目は、もちろんあります。
私も「ひとまずコレでいいか」という状態の仮申請みたいなところも、多々。
エンディングノートが根本的に書き進められない理由はどこにあるのか?
今一度、向き合ってみようと思います。
◇◇◇
嫌な項目に向き合う
エンディングノートには「嫌な項目」がいくつもある。
まずそこに目がいくと、一歩目が踏み出せない。
終末期医療、介護について、財産について、葬儀やお墓について。
正直この並びに楽しさは微塵も感じられない。
有り余るお金があって、「誰にいくら、あ、げ、よ、か、なぁ~」と考えるなら、まだ楽しいかもしれない。(そんな世界知らないけど)
素敵な老人施設に入れる余裕があるなら、どのホテルにしようかな?というテンションで選べるのかもしれない。(でもこれも、その世界を体験したって人が、中の人間関係があまり居心地よくなく、たとえ色々不便でも、地元でコミュニティに属しながら一人で暮らした方が楽だと感じて舞い戻ってきたという話も聞く)
終末期医療は基本、痛そうな話ばかり。
体になにか刺したり穴を開けたり。
そこに明るい未来を感じられない。(大概はただ命を延ばす為だけ)
リビングウィル、尊厳死、安楽死、いろんな情報がある中、必ずくるその日に思いを馳せる。
楽しい話ではない。
◇◇◇
安楽死をテーマにした映画に思うこと
安楽死といえば、一昨年上映された映画「PLAN75」。
(私にとって大切なことを教えてくれる友人に、こちらも教えてもらった)
もう生きたくないと思ったら、75歳以上はそこで「安楽死」を選べるという法律が出来た、という架空のお話。
誰のお役にも立てなくなったり、援助や支援が必要になってきたら、もう生きていることに意味は無いのか?
そう投げかけてくる映画だった。
登場人物はまだ、お寿司やお酒を美味しいと思える味覚も残っている。
空を見上げると、そこに空があることが分かるのに。
ただ生きていることに、誰かのお許しがいるのだろうか?
物質的にお役に立ててるうちに、お迎えが来るとは限らない。
自分のことも、誰かのことも、生きている意味を難しく考えるのはよそう、と感じた。
◇◇◇
逃げたい項目との向き合い方
しかしそうは言っても、もし、もう治療は難しい、という状態になったら?
A、Bどちらを選びますか?という問いがエンディングノートには必ずある。
この場合の「生きている意味」は、また違った意味合いの色を持つ。
A 人工呼吸器や胃ろうなどの管に繋がれても、延命措置を続けてほしい
B 自然に任せて、痛みや苦しみだけを取って欲しい
自分のことだと考えた時、この質問に Aと答える人はどのくらいいるのだろう?
(若い世代の方だといる?)
しかしその選択が家族のことの場合、その選択を迫られた時どのくらいの人が Bを選べるのだろう。
(これはたとえ高齢の親だったとしても)
医療関係者は患者の希望より、家族の言い分や合意を重視する傾向にあると言われている。
本人が望んだからと言って、自分の望む医療行為を簡単に選択出来るわけではない。
必ずそこには、たくさん良質なコミュニケーションをしていた時間が必要になってくる。
こう言った問題に、前もって、見送る見送られる両面から考えてみるというのが、エンディングノートに向き合う意味なのだと、私は感じている。
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嫌な項目と向き合ったその先は?
人生の最期の選択には、嫌な項目は多々ある。
しかし、自分がどこにどんな不安を抱えているかを知ることは、生きることを健やかにする道しるべを、見つけやすくしてくれる。
選択に迷う項目は、アンテナだけ立てて置く。
そのことに関しての体験談や映画や書物などの情報から、その都度自分に置き換えて、選択肢を増やしていく。
その中で自分なりの最善策を準備するしかない。
自分でさえ迷う項目は、大切な人はもっと選択に苦しむ項目になるのだから。
嫌な項目こそなるだけ時間をかけて、向き合っておきたい項目でもある。
ただ命ある限り、
自然の流れの中で生きる為に、
今出来ることを、、、
不安のお片付けを済ませて、今を生きていきたい。