理想の父親像

項目 履歴とゆかり

エッセイ⑫<わが人生二度目の分岐点>


破天荒な母の夫を40年以上勤め上げた父も、振り返れば破天荒だよなと、最近になって思う。

母に比べると穏やかで、家族にはやさしかったのと、あと私には理想の父親像というものがそもそもなかったので、破天荒な父を苦々しく思うことは、あまりなかった。

私の人生の転機の一章は、五歳で祖父母の養女になったことだが、七歳で早くも二章がやってきた。

小学校に入学して、しばらく経ったある日のことだった。

父はいつもより早く帰ってきて、自室で寝ていた。

母が金切り声で、「こんな時に寝てるなんて、信じられない!」と叫んでいるのを聞いて、ただごとではないな、と思った。

父はその日、勤めていた私立の小学校を、校長先生とけんかをしたとかで辞めてきた。(きっと深い理由があったのだ、とは思う)


その日から私は、サラリーマンの娘からフリーランスの娘になった。

 

ニュータウンと呼ばれる町に住んでる近所のお父さん達は、銀行員だったりお医者さんだったり商社マンだったり、みんな忙しく、平日家にいることなどほぼなかった。

しかし我が父は、率先して小学校のPTA役員なども引き受けてくれたし、いつもみんなの身近な存在だった。

だけど、やはり少し変わっていたのだと思う。

父が仕事を辞めた後すぐ、私達家族は夏休みでもないのに、長野県の上高地で長い休暇に入った。

私は小学校に入学したばかりだったし、その間もみんなは学校に通っている。

当時まじめで、みんなと違うことをすることが何より嫌だった私は、学校に行かせてもらえず、こんな山小屋に連れてこられたことが、ただただ腹立たしかった。


それでも、蒼く澄んだ川や、新緑で鮮やかになっていく山々は、目に焼き付くほどに美しかった。


その休暇に、当然一緒に連れてこられていた幼い妹は、環境の変化でとんでもない高熱に見舞われ、病状が悪化して、山小屋から何キロも離れた病院に運ばれたりもした。

大好きな妹の辛そうな様子を見て「これも、こんな所に連れて来たせいだ!」と、私はまたプリプリ怒っていた。

今思えば、あの山小屋での時間は、父や母にとっては新たな人生への準備期間だったのだろう。自分がそのころの両親よりはるか年上になった今、少し切なくさえ思う。

学校に行かせて欲しいという当然の権利を主張しているだけ、とプリプリ怒っている私にも、少し優しさや気遣いが欲しいところだったなぁ、と今なら思う。



父は小学校の頃から勉学と仕事を両立させてきた人。強い。

その後も父は、私が独立するまで何度か無職期間があったように記憶するが、83歳の今も、Zoomをつかって塾の先生をしている。

 


私の履歴は家族の履歴でもある。同じ経験をした妹はこのことを憶えているだろうか?

何を感じていたのだろう?

聞いてみたくなって聞いてみた。

あの熱が出た時、市販薬を飲まされて、そのあと身体中ブツブツが出来たことだけは覚えてると。

それ以外、気持ち面のことは何も覚えていないと言った。

そうだった。彼女には子供のころの感情記憶がほとんどない。

感情記憶だけが異常に残っている私と、何も残っていない妹。

この姉妹の闇を感じる?(笑)



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