逢いたい人に会いに行ける幸せ
項目 大切な人
エッセイ⑲ <旧友との昔と今>
私は内向型の為、友人が少ない。
そこへの言い訳ではないが、友人はコレクションではない、セレクションだ、などと言ってきた。
小さい頃からグループ行動が苦手だった事もあり、ずっとだいたいが一対一のお付き合い。
なので、友人と友人があまり繋がっていない。
「みんなで集まろう!」という言葉には、
「い、いやだ。。。」とゾワゾワしてしまう笑。
先日も40年来の友人でバリバリ事業をやっている女社長Mが、「高校時代のグループラインにレナ蔵も入れてもいいか?」と聞いてきたので、「お願いだからやめて」と断った。
まだだめなのね、、、といった感じで
「わかったわかった」と言ってくれてホッとした。
結婚し地元を離れ、子育て期に入ってからというもの、私は昔からの友人と会う事は殆どなくなっていった。
それには少し悲しい過去がある。
私は第一子を地元で出産したので、産後一か月ほど実家で過ごした。
当時夫は、朝は6時半には出勤し、夜中は12時近くまでシゴトをしていた。
実家から遠く離れた自宅に戻ったら、一人で動ける自由な時間はあまり取れないであろうと思い、私は出産祝いのお返しをどうしてもこの里帰り中に調達したかった。
授乳をし、ちょうど眠ったのを見計らい、母に2時間で帰ってくるから長男を見てて欲しいとお願いして、近くのデパートへでかけた。
雨が降っていたこともあり、交通量が多めで30分ほど帰りが遅くなってしまった。
家に戻ると駐車場からも聞こえるほどの声で長男が泣き叫んでいた。
「ああぁ、、、ごめんごめん」と慌てて家に入った瞬間、
「は??」と目を疑った。
母は長男が寝かされている部屋ではなく、廊下を挟んだ別部屋のダイニングで、リクライニングチェアーに寝そべりながらタバコを吸っていた。
泣いてるやん・・・
なんで??
せめて傍にいてやってよ・・・
「もう一時間くらい泣いてはるわ」
母はこともなげに言った。
私は母を見誤っていた。
この時私は、誰かに息子を預けることは命に関わるのだと思ってしまった。
帰省の時に親に子供を預けて旧友とお茶をするなどという未来は私には無い、とはっきり悟った。
さて、気を取り直して、古い友人達のおはなし。
ざっくり言うと、私の学生時代の友人はとにかく「凄い」。
私が会いたいと言わない限り、何年でも放っておかれる。
元気にしてる?とあちらからたずねてくることもない。
十数年ぶりに用事があって電話をしたら、昨日もしゃべったよね、というテンションで、
「おー、どした?」と、いかにも何かしながら肩に電話を挟んでいるような受け答えだ。
彼女たちはとにかく忙しい。
自分のしたいことに夢中で生きている。
若い頃からそうだった。
ある日突然勤めていた銀行を辞めて、「世界一周行ってきまーす」と親の猛反対を押し切って、ペンギンのぬいぐるみ片手に、本当に一人で出掛けてしまったYちゃん。
当時はスマホも無かったので「地球の歩き方」が命綱だ。
翻訳機能付きのなんちゃらもなかったと思う。
世界一周女子一人旅は、生きて帰って来てくれるのだろうか?と心配するレベルのことだった。
また、新幹線で当時3時間かかる名門芸大に進学したNは、帰省の時はなぜか自転車で帰って来た。ほぼ全行程自転車だ。もちろんこちらも一人で。
何度も言うがスマホの無い時代。地図を片手にだ。
疲れ果てた彼女は、帰ってくると決まって二日くらいは眠っていた。
そして、道中起こった出来事はA4の大学ノートにまとめてある、と見せてくれた。
箱根の山で大雨に降られてびちゃびちゃになった話、途中泊まった民宿の様子など、リアルだった。
私は地図もろくに読めないし、そんな事を一人で決行するだなんて、、、考えただけでも怖くて震えてしまう。
なのに、彼女らはこれをやりたいことにあげながら実践していく。
ずっと違う生き物だと思ってみていた。
長い間、会って話す事がなかった古い友人達。
子供の命に始終アンテナを張っていなくても良くなった後も、もう一度会うキッカケが無いままだった。
レナ蔵50歳の誕生日当日、もはや年賀状のやり取りもなくなっていた例の女社長Mから、見たことが無いほどの大きな花束が届いた。
『まだまだこれから!(笑)』
懐かしい彼女の字で、メッセージにはそう書いてあった。かっこよすぎるねん。
エンディングノートに向き合い、人生を俯瞰することを覚えた私はここ数年、この心に残っている古い友人達にも「会いたい」と素直に言えるようになった。
今年も、家族と東京に住む世界一周Yちゃんに、「そちらへ行く用事があるので、ご飯でも食べない?」と年明けに連絡した。
まだ数ヶ月先の事だったが、即答で「わかった。ご飯と泊まるところ、予約しておく」とだけ返信があった。
しかし、「もしかしたら忘れているのでは・・・」と心配になるくらい放置された後、「早割で抑えてあるから大丈夫」とだけ連絡があり、当日を迎えた。
指定されたお蕎麦屋さんへ時間通り行くと、彼女は待っていてくれていた。
そこで早めの夕飯を済ませて、彼女に手を引かれるようについて行くと、車寄せがロータリーになっているようなでっかい老舗ホテルに着いた。
フロントにも寄らず、そのまま部屋へ。。。
なんで??鍵は??
ピカピカのエレベータを降りて、部屋の扉を開けた瞬間、目の前の大きな窓からスカイツリーが「ようこそ!」と出迎えてくれた。
ここは、すいーとるーむ???ですか???
まず目に飛び込んできたのはスカイツリーだったが、そのあと私の目をハート♡にしたのは、ヤーマンの美容機器の数々だった。
そして、おまけのように美しいケーキ6個が用意されていた。
私達はその夜、そのキラキラなスイートルームで、美しいケーキをおつまみに珈琲を飲み、会わなかった時間に起こったお互いの話をし続けた。
彼女は言った。
「レナ蔵には返せないくらいの恩があるから、ちょっとずつ返しておく」と。
5年前に仲の良かった友人を病気で亡くしたYちゃんは、静かに終活をはじめていた。
若い頃、愛想のない意固地だった私のことを「ちょっとだけ我慢して付き合ってみると、良さが分かる」と彼女は分かりやすく皆に伝え、人を繋いでくれていた。
美味しいものもセンスの良い食器類も、私のお気に入りは彼女がくれたものだった。
恩を返さなくてはいけないのは私の方だ。
私が唯一彼女にしたことで覚えているのは、30年以上も前のこと。
大学の合格発表の日、私の番号はなかったが彼女の番号はあった。「多分ダメだと思う」と発表を見に来なかった彼女に、急いで公衆電話を探して合格の連絡をしてあげた事くらいだ(笑)。
珍しく母が褒めてくれたことだったので、覚えている。
彼女たちに何年も会わなかったが、私が今、hibiyaの活動の中で伝えたいと思っている「残りの時間を大切に生きる」を、彼女たちは実践していた。というか、彼女達の生き方は何十年も前からそうだった。
めちゃくちゃ忙しいはずなのに「会いたい」と言えばいつも「空いているよ」と言ってくれる。
私はようやく、彼女達のその姿をお手本にしようと思える位置まで来ることができた。
逢いたい人に会いに行ける幸せを、大切にしていきたい。
大勢のグループライン、入りたなくないのに断れないところが、私の弱いところ😅その後結局しんどくなってそろ〜っと消えましたが😆何年空いても会えばホッとし元気をもらえる友人が、幼少期、学生、社会人、ママ期、とそれぞれ一人ぐらい。今「分人リスト」書いていて、少ないけど充分って実感しました😌
「コレクションではなくセレクション」という言葉、めっちゃ刺さりました👍
お母様の話、おおらかでかっこいい昭和の母像が浮かびましたよ(笑)
りーしゅさんも大勢のグループライン苦手ですか?
仲間ですね(^▽^)/
苦手は無理に得意にしなくてもいいかなって。
友人を一人ひとり大切にしていきたいタイプってことでいいですよね!
一緒に内向型、貫きましょうね(笑)