哀しみのその先に



項目 残したい記憶

エッセイ⑰ <忘れられない記憶

 


忘れられないクリスマスの夜がある。

元々子供の頃から、私にはクリスマスにサンタさんが来ることは無かった。

「あんな子供だまし」とサンタをまっこうから否定されて育ったので、クリスマスにいい思い出などなかった。

でも私の22歳のクリスマスの夜は、そんなどころの話ではなかった。

12月25日、夜7時半、

私がもっとも大事に思っていた友人の一人、Fちゃんの母から電話が入った。

その時の私にもし、「タイムマシーンを一千万円で貸しますよ」と誰かが囁いてきたら、私は借金をしてでも乗れないタイムマシーンに乗ろうとしたと思う。

これはFちゃんの命が一千万円ということではない。

私の判断能力が、それほどまでに恐ろしく低下していた。

後にも先にもあれほど動揺したことはない。


慌てているのか、怯えているのか、うろたえているのか、、、

ひたすら「どうしよう、どうしよう」を連呼しながら、溺れるように何かを考えようとしていた。

部屋の中をウロウロと歩き回っていたことを思い出す。


その日からさかのぼること、3日前、私はFちゃんともう一人の友人とちょっと早めのクリスマスということでアフタヌーンティーパーティをした。


お店は忘れてしまったけれど、「今日はわたしが」と言って、Fちゃんがお支払いをしようとした。

「今日までたくさん相談にのってもらったから♡」

そのお礼だと、Fちゃんは明るく言った。

半年ほど前から、彼女にはよくある若い女性の悩み事や、うまくいかないことが続いていた。

私も、事あるごとに悩みを聞いたり気晴らしに出掛けたり、彼女の傍にいたつもり だった。

年も変わるし、来年はイイこと あるといいね!

前を向いて行こう!

今思えば、うわべだけの軽い言葉ばかり。

三人でクリスマスパーティをしたその日、私は家に帰ったあとも、なんだかやっぱり言葉が足りなかった気がして、急いでハガキを書いた。

この時ハガキにしたのには、理由があった。

一緒に住む彼女の家族の誰かに、それとなく彼女のことを伝えたかった。


12月26日の朝、

私は目をパンパンに腫らして、自宅から2時間半かけてFちゃんの家へ行った。

Fちゃんの母は私に

「読まずに逝っちゃったわ」と、

私の書いたハガキが飾ってある、Fちゃんの部屋へ通してくれた。

「ごめんなさい」

私は床に頭をつけて謝った。

「もっと早くFちゃんのおかあさんに相談するべきだった」


その年がどのように暮れていったのか、どうやって年が明けたのか、思い出せない。

友人に、

「レナ蔵が棺にぶらさがって泣くから、あぶなかったんだよ」とか、「火葬場までいっしょに行った時、途中のタクシーで吐く吐くって言って大変だったんだよ」と、のちに自分の慟哭の様子を伝えられた。

Fちゃんの後を追っていきそうな勢いで怖かった、とも言われたが、私自身はそのようなことは一度も考えなかった。


それから何年かは、友人の死を受け入れることは 出来なかった。

彼女に似た人を街で見つけると、瞬時に「生きてたんだ!」とスイッチが入ってしまい、その人を追いかけてしまう、ということが何度かあった。

その後も何年も思い出すと涙が零れてきて、そのたびに「もう一度会いたい」と思った。



あの日から20年が経った頃、21歳の彼女は私の夢に出てきて、

「レナ蔵もういいよ、ありがと♡」と、

ハッキリ聞き覚えのある声で言った。

それからは泣かずに、彼女を思い出せるようになった。


エンディングノートに向き合って、思いついたことがあった。

彼女との思い出の復元だ。

流れていってしまわぬように、やりたいことリストに記入した。

彼女が亡くなる数か月前、彼女の最後の舞台になったのは、私と二人で弾いた二台のピアノのバッハ・ピアノコンチェルトだった。

録音のカセットテープが残っている。

カセットテープが生きているうちに、スマホで聴けるようにしておきたい。

私のお葬式の時には、これも使ってもらおうかな。

その時はまた、彼女に会えるといいな。


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